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目賀田種太郎家臣・吉川源兵衛 申渡状 慶応四年(1868) 古文書
目賀田種太郎家臣・吉川源兵衛 申渡状 慶応四年(1868) 古文書

目賀田種太郎家臣・吉川源兵衛 申渡状 慶応四年(1868) 古文書

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商品の説明

【状態】虫損多、痛み、焼け、汚れ、35.8×48.4cm 【翻刻】   申渡 其方儀、歳来出精相勤候ニ付、其方 一代給人格被 仰付候、就而者、村々 取締方等相心得、猶厚出精可被致候、           目賀田種太郎内   慶應四辰年三月    吉川源兵衛(印)            松沢十左衛門殿 (裏書) 表書之通相違無之もの也、 種太郎(印) 【現代語訳】 申し渡す。 あなたは長年、精を出して勤めてきたので、あなた一代に「給人格」を認めます。 つきましては、村々の取締方の役職などを勤めて、なお厚く精を出すようにしてください。 (裏書) 表書の通り、相違はありません。種太郎。 【解説】 慶応四年(1868)三月に書かれた申渡状で、目賀田種太郎の家臣・吉川源兵衛から、松沢十左衛門に宛てられている。 内容は、百姓だった松沢十左衛門に対して、一代に限って「給人格」という武士身分を与える、というものである。 目賀田種太郎(1853~1926)は諱を守正といって、旗本・目賀田幸助守文の長男として江戸本所太平町に生まれた。 文久元年(1861)、九歳で父と死別した種太郎は、691石余の領知を相続する。 領知は武蔵国埼玉郡の台村・下手子林村・今泉村・下三ヶ谷村、上野国邑楽郡(おうらぐん)野辺村・石打村に存在した。 天和年間(1681~84)、野辺村の名主・松沢十左衛門という百姓が活動していることが知られるため、この史料に見える松沢十左衛門は、その子孫と考えられる。 この文書が出された慶応四年(1868)三月は、戊辰戦争の最中で、四月十一日には江戸城が無血開城する。 旗本の目賀田種太郎はこのとき十六歳であるが、幕府が滅びようとするなかで、領知の名主に給人格を与え、これまでの苦労に報いたことになる。 名主の松沢十左衛門は給人格を得たものの、一代限りという条件付きであり、また幕府滅亡の直前であることから、その後の明治維新で彼が士族として扱われたかどうかは、不明である。 目賀田種太郎は十歳で幕府の学問所・昌平黌(昌平坂学問所)に入学した秀才であったが、明治維新後は大学南校(のちの東京大学)に進学し、明治三年(1870)九月、アメリカに留学して法学などを学ぶ。 明治七年(1874)、ハーバード大学を卒業した種太郎は帰国し、文部省に入省する。 その後は韓国統監府の財政監査長官や貴族院議員などを勤め、明治四十年(1907)には男爵に叙せられた。 大正十五年(1926)、七十四歳で没する。 墓は東京都大田区池上の本門寺にある。 【参考文献】 『国史大辞典』 『男爵目賀田種太郎』故目賀田男爵伝記編纂会、1938年 『板倉町史 別巻 6 (資料編 板倉町史近世史料集) (板倉町史基礎資料 ; 第87号)』板倉町史編さん委員会、1982年

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